金スマ出演!【ディーン・フジオカ】のプロポーズは?

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ディーン・フジオカ金スマ

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2016年1月にNHKの「あさが来た」で

一躍有名になった、俳優のディーン・

フジオカが金スマに出演しました。

 

番組では、何故これだけの素質が

ありながら、今まで無名だったのか?や、

知られざるディーン・フジオカの俳優への

軌跡をたっぷり紹介しました。

 

番組に出演した、ディーン・フジオカは

プロポーズの言葉など、サービス満点で

これでもか!というくらい詳しいことを

話してくれました。

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【ディーン・フジオカ】金スマ出演!

ディーン・フジオカは、つい最近まで知っている人は少なかったのですが、

NHKの朝ドラ「あさが来た」で、元薩摩藩士で、大阪経済の発展に貢献した

五代友厚を演じたことで、今では知らない人はいないのでは?と思わせる

までの人気俳優になりました。

 

しかし、多くの人が疑問に思っているのは、何故これほど実力、魅力の

あるイケメンが今まで、全くの無名だったのか?ということだと思います。

 

その質問の答えは、中居正広がMCを務める「金スマ」で紹介されました。

 

ディーン・フジオカが、金スマのゲストとして登場すると、その輝かしい

オーラがスタジオを包みました。

 

それでは、何故ディーン・フジオカは昨年まで知名度が低かったのでしょうか?

 

それは、新聞などで言われている、「逆輸入俳優」、「第2の金城武」にヒントが

ありました。

 

それもそのはず、実はディーン・フジオカはアジア圏では、すでに熱狂的な

ファンがいる人気俳優だったのです。

 

それだけでなく、ディーン・フジオカには、モデル、映画監督、ミュージシャンの

顔がありました。

 

私が、ディーン・フジオカがすごいと思ったのは、アジア圏でただ単に活動

していただけでなく、きちんと言語も高いレベルで習得している点です。

 

ディーン・フジオカはマルチリンガルで、日本語、英語はもちろんのこと、

北京語広東語インドネシア語まで使いこなすことができるのです。

 

この辺が、金城武と似ているところがあるかもしれませんね。

 

ディーン・フジオカの顔だちや名前からすると、外国人か、

ハーフのような感じがすると思います。

 

しかし、ディーン・フジオカは福島県生まれの日本人で、

千葉県で育ちました。

.

年齢は、1980年8月19日生まれの35歳です。

 

父親は、IT関連会社勤務、母親はピアノの先生ですが、

父親が中国生まれの日本人だったため、お風呂に入って

温まるまで、日本語ではなく、中国語で数を数えたそうです。

 

音楽的なセンスも母親譲りなのではないでしょうか?

 

最初に、ディーン・フジオカの頭角を表すことになった

出来事は、ディーン・フジオカが17歳のときに、妹が応募した、

ある芸能界の登竜門のコンテストで、応募総数が10,563人

中から、最終選考の6人に残りました。

 

そして、スカウトマンからデビューの声が掛かったのですが、

「特に芸能界とか興味がないんで」といって断ったそうです。

 

これは、一見悪い態度に思えますが、実はディーン・フジオカには

すでに夢があったため、他の道を考えることはできなかったみたいです。

 

その時に、ディーン・フジオカが持っていた夢は、「日本で会社勤めをして

というより、アメリカで新しいIT関連の仕事をすればビル・ゲイツやジョブズの

ようなトップになれるんじゃないかな。」と思ったそうです。

 

これはIT関連会社で働いていた、父親の影響だったかもしれません。

 

そして、ディーン・フジオカは自分の夢に向かって動きだし、まずは

1999年(19歳)の時にアメリカのシアトルにあるシアトル大学に

入学します。

 

ディーン」の名前は、渡米してお世話になっていたホストファミリーの

父親から呼ばれていた愛称だったそうです。

 

シアトル大学では、IT学科を専攻していましたが、忙しい勉強の合間に

夜はバンド活動もしていたそうです。

 

大学卒業後は、アメリカのグリーンカード(移民権)を取り、現地に会社を

設立する夢を持っていたのですが、大学卒業の2年前の2011年9月11日に

アメリカで発生した同時多発テロにより、外国人に発行するビザが取りにくく

なってしまったそうです。

 

アメリカのグリーンカードは、ただでさえ取得が難しいものだったのですが、

テロ発生以降は、ほとんど不可能になったものと思われます。

 

運命のいたずらで夢を奪われる形になった、ディーン・フジオカはバイクを

使って、バックパッカーとしてアジアを旅することになります。

 

旅は、北京からスタートして、ベトナム、カンボジア、タイ、香港を約3月かけて

回りました。

 

そして最後に訪れた、香港で運命の歯車がかみ合い始めます。香港の

中心街のワンチャイで夜のクラブイベントに参加しました。

 

パブのショーで、アメリカで鍛えた得意のラップを飛び入りで披露したところ、

それがたまたま訪れていた、ファッション誌編集者の目に留まり、何とそのまま

香港で芸能界デビューすることになりました。

 

この時に決めた名前が、シアトル時代から呼ばれていた愛称を使って

「ディーン・フジオカ」だったそうです。

 

スター街道を急速に進み始めた、ディーン・フジオカは香港に着いてから

わずか4か月後には、中心街のワンチャイにある、タイムズスクエアの

巨大モニターに映ることまでになっていました。

 

ここまでの、経緯をディーン・フジオカは、貧乏旅行だったのでお金が

なかったので、生きていくために一生懸命やっていたら、たまたま

うまくいったと言っているそうです。

 

ただ、私が北米に住んでいたときに、大学卒業後に車で他の地域を回って

ジョブハンティング(仕事探し)をしたことがあるのですが、ある意味それに

似ているのかな?と思いました。

 

北米の大手航空会社でパイロットをしている私の友人も、同じように車で

国内を巡って仕事を見つけました。

 

ディーン・フジオカの場合は、本来、香港で仕事をすることになるとは

思っていなかったかもしれませんが、それも運命だったのかも

しれませんね。

 

それを裏付けるかのように、香港で活動をしているとそのうちに

「演技に対するパッション」を発見して、よりはまり込んでいった

みたいです。

 

翌年2005年の25歳だった時には、映画「八月の物語」で、いきなり

主演を演じます。

 

そして、この香港で出演した映画が、台湾の大物プロデューサーで

台湾版「花より男子」を手掛けた、アンジー・チャイの目に留まり、

26歳になったディーン・フジオカは今度は活動の拠点を台湾に移して、

俳優活動が始まります。

 

その台湾では、映画だけでなく、テレビドラマ界にも進出していきます。

 

2年後の28歳のときには、ドラマ「笑うハナに恋きたる」に出演しました。

 

このドラマで、ディーン・フジオカはイケメンの御曹司役を演じるのですが、

すごいのこのドラマの視聴率です。

 

中国全土で、1%の平均視聴率をとればすごいと言われている中、

このドラマは8%を記録したそうです。

 

しかし、異常なまでの短期間で、有名俳優まで上りつめてしまった

ディーン・フジオカは大きなストレスを感じるようになってしまいました。

 

それは、あまりにも有名になってしまったため、自分がプライベートで

外出が一切できなくなってしまったことでした。

 

ここで、ディーン・フジオカが自問自答したのは「俺、こういう人生を

生きたかったのかな?」でした。

 

そして、行動力のあるディーン・フジオカはすぐに事務所に「一度、

全部の仕事を休ませてください」と頼んだそうです。

 

そして、同じ年の2008年に台湾で会った恋人が住むインドネシアの

首都ジャカルタを訪れます。

 

そこで、世界的に有名なDJ Sumoと一緒に音楽制作を始めます。

 

そして、オリジナルアルバム「My Dimension」(作詞・作曲ディーン・

フジオカ)を完成させます。

 

そのプロモーションビデオでは、アメリカ時代から続けている

ボクシングも披露しています。

 

そのように、海外で活動していたディーン・フジオカが、どのように

日本で俳優デビューすることになったのでしょうか?

 

ジャカルタで生活をしていたディーン・フジオカが休んでいた

俳優活動を始めるきっかけになったのは、たくさんのファンからの

復帰を願う声でした。

 

そして「求めてくれる人がいるのに、それを放棄するのはだめだ」と

思い俳優活動を再開させました。

 

ディーン・フジオカは30歳の時に「セデック・バレ」という映画に

出演しました。

 

その時に知り合った日本人のスタッフに、日本で活動をしてみない

かと誘われました。

 

しかし、その時は「中華圏やハリウッドを活動範囲として考えて

いたが、日本は目に入っていなかった」ことを理由に断ります。

 

けれど、台湾に拠点にして活動してくれてもいいと言ってくれた、

現在の事務所に入りました。

 

ディーン・フジオカが日本で活動を始めたのが、2011年で31歳の

時でした。

 

しかし、日本での最初の仕事は、問題作の映画「I am Ichihashi

私が逮捕されるまで」でした。

 

それも、主演を演じるだけでなく、監督、主題歌までもこなします。

 

その後は、台湾に戻り活動を続けていきます。

 

その後の2014年には、アメリカのドラマ「荒野のピンカートン」で

日本人では唯一の準レギュラーの役を演じて話題になりました。

 

再び日本で演じたのは2015年で、フジテレビのドラマ「探偵の

探偵」でした。これが日本での連ドラ初出演になりました。

 

そして、9月にNHKの連続テレビ小説「あさが来た」で

ブレークしたのでした。

 

【ディーン・フジオカ】妻へのプロポーズは?

ディーン・フジオカの仕事が増えていく中で、プライベートでも大きな

出来事が起こりました。

 

2013年に以前から交際をしていた、インドネシア国籍の女性と

結婚をしました。

 

そして、2年後には双子の子供を授かります。

 

気になるのが、その時のプロポーズがどのように、どのような

言葉でされたのか?というところだと思います。

 

普通、思い浮かべるのはどこかの思い出の場所や、景色の

よい場所やレストランなど、ロマンチックなプロポーズを

想像するかもしれません。

 

それは、日本での初仕事の時に、日本と台湾を往復していた

ときのある朝に台湾から日本へ発つ日に自宅の玄関先から

ドアを開けて出る直前に振り返って、見送る恋人に「結婚

しよう(多分、Will you marry me?)と言ったそうです

(奥さんとは英語で話しているそうです)。

 

それはふいに出た言葉で、彼女といれば世界中どこにいても

自分のハートが帰れるホームになると思い、結婚したそうです。

 

現在家族はジャカルタに住んでいるので、いずれは家族と

一緒に住みたいと思っているそうです。

 

今では日本で世代を超えて、大人気俳優にまで上りつめた

ディーン・フジオカの活躍が楽しみですね。

 

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